導入期

昭和37年~40年

 昭和37年より南郷村で14名により、「始めたら10年は続けよう」の合言葉で、トマト研究部が組織され50㌃で開始された。行政、農協、生産者一体となった活動が展開され、経営と生活の安定のため当時としては、冒険とも思われるほどの積極的な施策を講じることによって、着々と産地としての条件が整備された。しかし当初は東京の市場で「品質は日本一だが量の少ないのは世界一」と酷評されたのはこの時期である。
 価格低迷からリヤカーにトマトを積み、一部を村内に振り売りもした苦難の時代。
 品種は導入時「ひかり」、昭和38年から40年まで「新豊玉2号」

栽培定着期

昭和41年~47年

 昭和41年から伊南村、只見町でもトマト栽培が開始された。3カ町村29名による「南郷トマト栽培組合」が結成された。
 南郷村で「土地基盤整備事業」が実施され、これまで不整形な水田が長方形となり作業効率が改善された上、用水と排水が分離されたことによる、青枯病等の土壌伝染性の病害も減少した。44年に集中豪雨による被害を受け、激甚災害の指定を受けた。
 45年になってパイプハウス雨よけ栽培試験が始まる。品種は「新豊玉2号」。

発展拡大期

昭和48年~53年

 昭和48年に支部組織が結成され、翌年「南郷トマト生産組合」が町村をこえて結成された。世はオイルショックの真っ只中にあり、南郷トマトの販売高がついに一億円の大台を突破し、1億3千万円にも達した。前年度4kg(1箱)の平均価格が464円であったものが895円とほぼ倍になった。品種を「強力米寿」に切り替え10㌃当りの収量も飛躍的に伸びた。
 51年に南郷村に第一選果場、53年には只見に第二選果場が設置された。普及所、生産者、農協が一体となって生産者の掘り起しが功を奏し、栽培面積が7.2㌶から17.6㌶、栽培者も63人から145人と飛躍的に伸びた(昭和53年)。

安定期

昭和54年~61年

 昭和54年からアンブレラによる栽培が本格的に始まった。この栽培方法は全国でも南郷地域独自の栽培方法で設置費用が低廉であることなどから、栽培の主力となっていた。この時期ほとんど毎年のように災害に見舞われている。56年霜害、台風災害、57年4月の大雪、58年低温、日照不足、60年長雨-干ばつ-長雨、61年低温、日照不足。これらを教訓として60年「南郷トマト生産互助会」を発足。価格補填事業を補完する役割を担う。
 58年高品質を目指すため、選果機を導入した。そして昭和59年から舘岩村で栽培が始まった。品種は54年~56年「強力米寿」57年~61年「ときめき2号」

質的拡大期

昭和62年~平成4年

 昭和62年から消費者ニーズの変化に伴い、品種を完熟系「桃太郎」に更新。品質向上、安定出荷のためパイプハウス導入による施設化を進める。63年「トマト青年部」が「トマト研究部」に名称変更、新技術開発の役割を担うようになった。この年の11月10日大雪が降り多くのハウスが倒壊した。

 桃太郎品種の導入は市場性に適応し、高単価で取引され平成2年の販売額は9億円を突破した。この時期から新規栽培者、栽培復活者、新規参入者により産地拡大の傾向が現れてきた。

充実発展期

平成5年~平成14年

 平成5年、第二選果場を第一選果場に統合しロボット箱詰め、カラーセンサーをそなえた選果機を導入。6年には空洞果防止などのためマルハナバチの導入を行った。

 高温、干ばつの年であったが高単価に支えられ、販売額を初の10億円台に乗せることが出来た。14年10月28日早すぎる降雪でパイプハウス375棟倒壊。大勢のボランティアの活躍で復旧。

充実拡大期

平成15年~現在

 15年、45ha規模の産地へ拡大を図るため、雪室予冷庫、光(糖度、カラー)センサー、自動箱詰めの機能を備えた新選果場を建設。18年地域団体商標登録認定。
 17年18年には大雪による被害を受けた。
 平成20年より食味の良い新品種「桃太郎ギフト」を導入。

導入期

昭和37年~40年

 昭和37年より南郷村で14名により、「始めたら10年は続けよう」の合言葉で、トマト研究部が組織され50㌃で開始された。行政、農協、生産者一体となった活動が展開され、経営と生活の安定のため当時としては、冒険とも思われるほどの積極的な施策を講じることによって、着々と産地としての条件が整備された。しかし当初は東京の市場で「品質は日本一だが量の少ないのは世界一」と酷評されたのはこの時期である。
 価格低迷からリヤカーにトマトを積み、一部を村内に振り売りもした苦難の時代。
 品種は導入時「ひかり」、昭和38年から40年まで「新豊玉2号」

栽培定着期

昭和41年~47年

 昭和41年から伊南村、只見町でもトマト栽培が開始された。3カ町村29名による「南郷トマト栽培組合」が結成された。
 南郷村で「土地基盤整備事業」が実施され、これまで不整形な水田が長方形となり作業効率が改善された上、用水と排水が分離されたことによる、青枯病等の土壌伝染性の病害も減少した。44年に集中豪雨による被害を受け、激甚災害の指定を受けた。
 45年になってパイプハウス雨よけ栽培試験が始まる。品種は「新豊玉2号」。
 品種は導入時「ひかり」、昭和38年から40年まで「新豊玉2号」

発展拡大期

昭和48年~53年

 昭和48年に支部組織が結成され、翌年「南郷トマト生産組合」が町村をこえて結成された。世はオイルショックの真っ只中にあり、南郷トマトの販売高がついに一億円の大台を突破し、1億3千万円にも達した。前年度4kg(1箱)の平均価格が464円であったものが895円とほぼ倍になった。品種を「強力米寿」に切り替え10㌃当りの収量も飛躍的に伸びた。
 51年に南郷村に第一選果場、53年には只見に第二選果場が設置された。普及所、生産者、農協が一体となって生産者の掘り起しが功を奏し、栽培面積が7.2㌶から17.6㌶、栽培者も63人から145人と飛躍的に伸びた(昭和53年)。

安定期

昭和54年~61年

 昭和54年からアンブレラによる栽培が本格的に始まった。この栽培方法は全国でも南郷地域独自の栽培方法で設置費用が低廉であることなどから、栽培の主力となっていた。この時期ほとんど毎年のように災害に見舞われている。56年霜害、台風災害、57年4月の大雪、58年低温、日照不足、60年長雨-干ばつ-長雨、61年低温、日照不足。これらを教訓として60年「南郷トマト生産互助会」を発足。価格補填事業を補完する役割を担う。
 58年高品質を目指すため、選果機を導入した。そして昭和59年から舘岩村で栽培が始まった。品種は54年~56年「強力米寿」57年~61年「ときめき2号」

質的拡大期

昭和62年~平成4年

 昭和62年から消費者ニーズの変化に伴い、品種を完熟系「桃太郎」に更新。品質向上、安定出荷のためパイプハウス導入による施設化を進める。63年「トマト青年部」が「トマト研究部」に名称変更、新技術開発の役割を担うようになった。この年の11月10日大雪が降り多くのハウスが倒壊した。

 桃太郎品種の導入は市場性に適応し、高単価で取引され平成2年の販売額は9億円を突破した。この時期から新規栽培者、栽培復活者、新規参入者により産地拡大の傾向が現れてきた。

充実発展期

平成5年~平成14年

 平成5年、第二選果場を第一選果場に統合しロボット箱詰め、カラーセンサーをそなえた選果機を導入。6年には空洞果防止などのためマルハナバチの導入を行った。

 高温、干ばつの年であったが高単価に支えられ、販売額を初の10億円台に乗せることが出来た。14年10月28日早すぎる降雪でパイプハウス375棟倒壊。大勢のボランティアの活躍で復旧。

充実拡大期

平成15年~現在

 15年、45ha規模の産地へ拡大を図るため、雪室予冷庫、光(糖度、カラー)センサー、自動箱詰めの機能を備えた新選果場を建設。18年地域団体商標登録認定。
 17年18年には大雪による被害を受けた。
 平成20年より食味の良い新品種「桃太郎ギフト」を導入。